柑橘類の原生地はアジアの広域に渡るようですが 原生地から東進したみかん類は やがて江戸時代以前のかなり古い時代に 中国から日本に伝わったのではと思われています。 |
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【その1】 有田市糸我町自生説
糸我社由緒書 文化7年(1810年)、当時の《糸我稲荷神社》の宮司、林周防と言う人が 社伝を記したもので、この中に糸我町での自生説が記されているそうです。 糸我稲荷神社は京都伏見稲荷大社の創建711年より60年古く わが国最古の稲荷神社と言う事です。 |
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年号 | 糸我の庄中番村の地に橘一樹自然に生え出て、年々実を結ぶ、 その味、蜜の如し、よって蜜柑と号す。 現代の有田市に自然に育った橘が年々実がなってその味は蜜のように甘くて 蜜柑(みかん)と名づけたと言う事です。 |
室町時代 1429年 〜1440年 永享年中 |
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室町時代 後期 1521年 〜1527年 |
自生した橘に接木が始まった。 |
1552年 天文21年 |
実った蜜柑を糸我社に供う。 |
1555年 弘冶元年 |
その年の初穂(新芽)を伊勢神宮に奉納された。 |
紀州蜜柑伝来記 江戸時代の最もまとまった柑橘の歴史の書物として和歌山県立図書館に収められています。 享保19年(1734年)有田郡石垣組中井原(現在の金屋町)の 中井甚兵衛という人が160年前の蜜柑の歴史を調べ書き残した書物だそうです。 その内容をまとめてみました。 |
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年号 | 紀州蜜柑伝来記 |
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安土・桃山時代 前期 1574年 天正2年 |
《有田郡宮原組糸我中番村の伊藤孫右衛門と申すもの 肥後の国八代と申す所よりみかんの小木を求め来たり、初めて糸我庄内に 植継ぎ候処、蜜柑土地に応じ、風味無比類色香果の形他国に 勝り候に付き、次第に村々へ植え広げ申候。》 伊藤孫右衛門と言う人は当時、糸我の庄の村長さんでその役職で若山(和歌山)の上司宅に 時々公用で出向いていたそうです。ある時、肥後の国八代(熊本県八代市)に 蜜柑という果物があって紀州藩にも植え広めたいので、蜜柑の木を求めてくるようにと 命令を受けました。山に囲まれ、地畑での作物の収益が少ない紀州藩の 政策だったのでしょうか・・・・。 当時、各藩の特産物は大切な財産でしたから、藩外への持ち出しはご法度でした。 孫右衛門は蜜柑の小木の取得に苦労し、一計(盆栽用に持ち帰りたいと・・・)を案じて 小木2株を持ち帰りました。1株は和歌山城内に植えましたが立ち枯れ、もう一株は自分の畑に 植えて育てました。蜜柑は土地に合い成長し、古くからあった柑橘に接木したところ美味しい 小みかんが実り、その蜜柑は風味良く色も形も美しく他の果実は到底及ばなかったと言う事です。 |
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安土・桃山時代 後期 1596年 慶長元年 |
《慶長の始めには保田の庄、田殿の庄へも1ケ村に50本、70本程ずつ 生い立ち候由。夫れより年々相増し籠数も出候に付き、 大阪、堺、伏見へ小船で積送り申し候。そこへも山城の国より蜜柑 出で候得共有田の蜜柑格別勝り申すに付き値段高値に買われ申し候。》 孫右衛門の育てた蜜柑は村人に分けられ、増殖や研究をかさねた結果 慶長の始め(安土・桃山後期1596年〜)には保田の庄(有田市)、田殿の庄(吉備町)あたりに、 50本、70本程ずつ育ち始めました。その後も年々増え、大阪、堺、伏見へと小船で 出荷するほどなり、その頃、山城の国(京都府)からも蜜柑が出荷されていましたが 紀州みかんは格別に勝って高値で取引されたということです。 |
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江戸時代 1603年 慶長8年 |
徳川家康江戸幕府を開く | |||||||||
1634年 寛永11年 |
この時代に滝川原葱兵衛という人が蜜柑を4百籠程(1籠は約14キロ入り) 江戸廻りの船に他の荷物と積み合わせ江戸に運んだところ、大変な高値で売れ この頃から蜜柑を換金作物として意識し、紀州の山々に蜜柑の木が増え始めたということです。 ☆江戸時代後期までの蜜柑は小ぶりで種のある小みかんのことで、 今、私達の生活の中で親しまれているみかんは温州みかんという品種です。 改良を重ね、極早生、早生、中生、晩生とあります。 ごくわせ わせ なかて おくて |
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1651年 慶安4年 |
1603年、江戸幕府が開かれてから1651年、徳川家光が将軍を退くまで江戸の町は 江戸幕府確立のために、築城、藩邸の建築、道路整備とそれは、それは活気に あふれた時代でした。この様な事情を背景にして江戸の蜜柑の需要が益々高まりました。 |
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1734年 享保19年 |
『紀州蜜柑伝来記』が書かれた年です。 |
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ふいご祭り 江戸の町では毎年11月8日に その頃、鍛冶屋には無くてはならない‘ふいご’を おまつりするふいご祭りありました。 その日は鍛冶屋はふいごの火を消し神棚にまつり、 季節の果物である蜜柑をお供えし、その後、みかんを 子供達に投げ与えたので、その日はどこの鍛冶屋も 子供達でいっぱいだったそうです。 江戸時代のこと、刀とも深いご縁のある 鍛冶屋さんの大切なお祭りだったようですね。 |
みかんの防腐剤 江戸まで一ヶ月を要したみかん船、 みかんが船で運ばれた時代は江戸まで1ヶ月を 要したと言う事です。季節は秋といえども 船の中で腐ってゆくみかんもあったに 違いありません。それを防ぐために 石菖(せきしょう)や山ももの葉を使ったそうです。 石菖と言うのは、さといも科の植物で芳香があり、 菖蒲の葉に似ているそうです。 菖蒲湯はこの葉を使ったとも言われています。 |
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見渡す紀州の山々はみかん色・・・・。
先人のご苦労が忍ばれます。
「紀州有田みかんの起源と発達史」
を参考にさせていただきました。
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